“願掛け”は合理的な行為だと思う

    
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僕は標準的な日本人と同じく、墓参りには寺へ行き、クリスマスも楽しみます。いわゆる「雑食性」の無宗教です。

そして、ウェブコンテンツを扱う仕事柄、数字をもとに物事を判断する癖がある合理主義的な側面を持っています。コンテンツの良し悪しは最終的に数字に繋がり、数字はコンテンツの良し悪しを判断する大きな材料であると考えるタイプのプロデューサーであり、編集者です。

そんな無宗教で合理主義的な面のある僕ですが、願掛けは積極的にしています。
自宅の玄関に福熊手が掛かっているのを見た友人たちに意外がられることがありますが、実は願掛けは合理的な行為だと思ってやっているんです。

家内安全 商売繁盛

自宅の近所に比較的大きな神社があり、仕事の息抜きで散歩をするときは賽銭として100円を投げて「家内安全、商売繁盛」と胸の中で唱えています。

もちろん、これさえやっていれば「家内安全、商売繁盛」が叶うとは思っていません。
福熊手も同じで、買ったら寝てても儲かるとは思っていません。(そうならいいな、とは思います)

でも、福熊手を買わなかったら、と考えてみます。

もし僕の商売がうまくいかなくなったり、なんなら廃業することになったとき「あの時、福熊手を買わなかったからか…」と、理由を福熊手に求めたくなってしまう気がするのです。

当然ですが、商売がうまくいかない理由は、僕のビジネス的な才能の無さや怠慢、勉強不足…などなどなど、自分の中にあるはずです。
その理由を外に求めないように、願掛けは起こったことの責任が自分の内部にあることをはっきりと自覚するための儀式だと思っています

儀式は記憶に残る

近所の酉の市で買った熊手には銭洗弁財天で洗ったお金を挟んでいます。

それでも、ちょっと仕事がうまくいかないとその理由をクライアントや業界全体のような「外」に求めたくなることがあります。

そんなときは、酉の市で繁盛する境内で拍子木と手拍子で三本締めをしてくれたおっさんたちの姿を思い出すようにしています。
すると、自分が願掛けのために福熊手を買った理由を思い出して冷静に「うまくいかない理由」を考えることができるんです。

僕はこの福熊手に神様が宿っているとか、福の神がついているとか、そういうことは信じていません。
ただ、自分の責任を自分でとるための儀式と理由が詰まっていると思っています。

願掛けにすべてを頼るようになると生きるためのバランス感覚を失って大変なことになってしまいますが、自分のモチベーションになるようその意味と理由を理解した上でなら、支えになってくれることがあるのではないでしょうか。


 

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